埋木帖

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城の復元と法令② 掛川城天守

 

umoregicho.hatenablog.com

 

 前回の記事では、福島県白河市白河小峰城三重櫓を「木造復元ブームの先駆け」として取り上げた。しかし、実際には小峰城三重櫓復元の少し前に、もう一つ“木造復元”が行われた事例がある。静岡県掛川市にある掛川城天守である。実際、『掛川城復元調査報告書』の序文には、掛川城天守の復元を「わが国最初の本格木造天守閣の復元」と書かれている。しかし、実際には他の木造復元のような評価を得ることは少ない。なぜ、このようなことになったのか。今回は掛川城天守復元を事例に城跡整備の課題を見ていく。

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掛川城天守外観

掛川城の歴史

静岡県西部に位置する掛川城は、今川家配下の朝比奈泰熙によって築かれた。しかし、その後、今川氏が徳川氏に追いやられ、1569年に掛川城も徳川配下の城となった。1590年の豊臣秀吉による天下統一がなると、徳川氏は関東へ移封され、掛川城山内一豊のものとなった。このとき掛川城は近世城郭として整備された。すなわち、現在見ることができる掛川城山内一豊によって築かれたのである。ただ、山内一豊関ケ原の戦いの功績により、土佐へ移封され、一豊による掛川支配はわずかなものであった。

その後、掛川城は松平・井伊・北条・小笠原・太田など11家26代の居城となり、明治維新を迎え、廃城となる。 

復元にむけた動き

掛川城天守明治維新を迎える前の1854年に起きた安政地震によって倒壊していた。(ただし、それまで現存していた天守山内一豊時代のものが、そのまま残っていたようである。)つまり、古写真などの天守の姿をそのままに伝える資料は残念ながら残されていなかった。しかし、それでも地元としては天守が欲しかったようだ。

戦後まもなくに起こった天守の再建ブーム(主に戦災によって焼失した天守が復興された時期)には、掛川城天守も復元に向けた動きがあったが、このときは財政難により復元の話は立ち消えとなった。その後もたびたび天守復元の話は上がったようである。

大きな転機となったのは、1987年(昭和62年)に掛川市に転入した白木ハナヱ氏が市に対し1億5千万円の寄付を行ったことだった。白木氏は、掛川市がいち早く生涯学習都市宣言を行っていたことに感銘を受け、それに関連した事業に使ってほしいということで寄付を行った。掛川市は、1年間検討を行った結果、その寄付を掛川城天守の木造復元に活用することとなった。この方針を白木氏に伝えたところ、氏は快諾し、さらに2度、追加の寄付を行い総額5億円の寄付となった。

この寄付をきっかけに掛川市掛川城天守の木造復元“ありき”で動いていく。 

建築基準法21条

掛川城天守の木造復元でも建築基準法が障壁として立ちはだかった。

前回取り上げた白河小峰城では、建築基準法21条との適合性が問題となったが、掛川城天守の場合はどうだったのか。

建築基準法21条では高さが13メートルを超える建築物について耐火基準などの安全基準を満たすことを求めている。しかし、これらの安全基準を満たそうとすると現代工法を積極的に取り入れざるを得ず、史実に忠実な復元とは言えなくなる。この基準のため、13メートルを超えた白河小峰城三重櫓は建築基準法に違反したわけだが、掛川城天守はどうだったのか。

実は掛川城天守の高さは16.18メートルで13メートルを超えている。

そのため、法令を素直に解釈するなら、掛川城天守も各種の安全基準を満たす必要が出てくる。しかし、これは史実に忠実な復元と矛盾する。この矛盾を避けるためには、白河小峰城三重櫓のように建築基準法の適用除外を受ける必要がある。しかし、掛川城天守の場合は、建築基準法の適用除外は受けていない。これでは違法建築になってしまうように思えるが、掛川城天守は適法の建築物である。

建築基準法施行令第2条6項

ここで出てくるのが建築基準法施行令第2条6項である。建築基準法施行令は、国会が定めた「法律」である建築基準法のより細かい部分を補うために行政が定めた「命令」である。この第2条6項では、建築基準法で定めている建築物の高さの定義を細かく定めている。これによると

(略)…階段室、昇降機塔、装飾塔、物見塔、屋窓その他これらに類する建築物の屋上部分の水平投影面積の合計が当該建築物の建築面積の1/8以内の場合においては、その部分の高さは、12mまでは、当該建築物の高さに算入しない。(一部省略) 

と定めている。つまり、階段室や物見塔は一定の大きさまでなら建築物の高さに含めないということである。掛川城天守は、この規定を利用した。

掛川城天守は3重4階の建築物であるが、このうち3階・4階を物見塔とそれに付随する階段階とみなすことで、法令上13メートル未満の建築物であるとしたのである。

これにより、掛川城天守は史実に忠実な復元を可能にしたのである。

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天守内部

史実に忠実とは言えない復元

しかし、実際の掛川城天守の木造復元は、とても「史実に忠実な復元」とは言えない代物である。

前述のように、実際に存在していた掛川城天守は幕末の地震により倒壊しており、その姿を伝える古写真は存在していない。一応、いくつかの絵図は存在したが、細部が分かるような資料とは言えない。

そこで、担当者は復元にあたって高知城を参考にした。高知城天守は江戸時代から残る現存12天守のひとつであり、築城者は掛川城天守と同じ山内一豊である。古文書には高知城の築城にあたって掛川城を参考にしたという旨の記述があるため、掛川城天守の復元では、逆に高知城天守を参考にしたというわけだ。しかし、だからといって掛川城天守高知城天守と本当に同じであるという確証はどこにもないため、不確かな根拠に基づく想像と言うしかない。 

壊された遺構

このように「史実に忠実な復元」とはいいがたい掛川城天守の木造復元は、さらなる問題を引き起こしていた。前述の通り、掛川城天守は各種の安全基準を満たさなくとも建築が可能である。しかし、そうはいっても一般に開放することを前提とした建築物のため最低限の安全基準は満たさなければならない。そのため、安全性を検証した結果、当時から残っている天守の下にある石垣(天守台)の上に天守を復元すると安全上問題があるとされたのだ。

掛川城天守台は、天守が倒壊した地震やその後の風化によって破壊が進んでいたものの、発掘調査の結果、ある程度、当時のまま残っていることが判明していた。

石垣は当時の土木技術の粋を集めた構造物であり、当時の石垣は極めて貴重な文化財と言っても過言ではない。しかし、この貴重な遺構の上に天守を作るとなると安全性に問題が生じることが分かったのである。

本来であるならば、木造復元工事の計画はいったんストップさせ、この貴重な天守台をいかに保全するかを検討すべきである。しかし、事業が天守の木造復元ありきで進んでいたため、この貴重な天守台を壊し、コンクリートで基礎を作り、天守の工事を進めたのである。これによって、貴重な遺構は未来永劫失われたのである。

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掛川城遠景(左手にあるのは太鼓櫓)

なぜ、無法な工事が行われたのか

1994年、掛川城天守は、わが国初の木造天守として竣工した。

しかし、以上で見てきたように掛川城天守の木造復元は多くの問題を抱えた事業であった。

なぜ、このような「無法な事業」が行われてしまったのか。

ひとつ考えられる理由としては、掛川城跡が史跡として指定されていなかったためである。

例えば、名古屋城大阪城文化財保護法で定める「史跡」である。この史跡に指定されると、史跡内の遺構を保全するために、史跡内の現状変更を行う場合には文化庁の許可が必要となる。また、県や市町村が条例によって県指定史跡等に指定した場合も現状変更には教育委員会などの許可が必要となる。このような許可は文化財の価値を損ねるような現状変更ではないかを基準に行われるため、むやみやたらな遺構の破壊や史実に基づかない建築を防ぐ効果が期待できる。

しかし、掛川城跡は当時、このような史跡に指定されていなかったため、文化財保護の観点からの規制を受けずに工事が進んでしまったのである。

 

ここまで、相当悪く掛川城について書いてきたが、掛川城はすばらしい城跡であることは指摘しておかねばなるまい。

掛川城には、日本で4つしかない御殿建築の現存例が存在しており、これを見るだけでも掛川城に行く価値はある。また、問題を抱えているとはいえ、木造によって建てられた天守は、職人の技が光る見事な建物である。そういった意味では復元された掛川城天守の価値が低いわけではない。

経済効果も相当のものであった。天守を復元するまで掛川城の来場者数は年間1万人足らずであったが、公開後7ヵ月だけで35万人の集客効果があった。2012年には総入場者数が300万人を超え、今でも年間約10万人程度が訪れている。町おこしとしての掛川城天守の木造復元は間違いなく成功であろう。

ただ、繰り返しになるが、城跡は集客装置である以前に貴重な文化財である。文化財保護と町おこし、あるいは都市景観や緑化など様々な観点を考慮しなければならないのが城跡整備事業なのである。

 

参考文献

  • 加藤理文(2016)『日本から城が消える -「城郭再建」がかかえる大問題』洋泉社
  • 掛川市教育委員会(1998)『掛川城復元調査報告書』
  • 萩原ちさこ他(2015)『“復元”名城完全ガイド』イカロス出版
  • 1994年11月13日 読売新聞
  • 2012年6月7日 読売新聞