埋木帖

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城の復元と法令① 白河小峰城三重櫓

 今年5月、名古屋城天守の立ち入りが禁止された。名古屋市が進めている天守の木造復元に向けた動きの一環である。

名古屋城は戦前、城郭として国宝第1号に指定された文化財であった。しかし、1945年の名古屋空襲において天守をはじめとする貴重な文化財の多くが焼失してしまった。だが「尾張名古屋は城でもつ」と称された名古屋のシンボルを取り戻そうと天守の再建に向けた動きが戦後広がる。その結果、1959年に鉄筋コンクリート造りで名古屋城天守は復元された。現在の名古屋城天守はその時のものである。

しかし、コンクリートの耐用年数は40~50年と言われており、再建から半世紀を経て、名古屋城天守はその安全性が危惧されるようになってきた。そこで、名古屋市は、現在の鉄筋コンクリート造りの天守をいったん解体し、木造の天守を復元しようと計画しているのだ。

だが、木造による名古屋城天守の復元は様々な課題を解決しなければ実現し得ない。予算や材料については既によく出ている議論だが、その他の重要な論点として法令の問題が存在する。実は、この法令の問題は、既に全国各地の城跡の復元整備に際しても大きなハードルとして存在してきた。また、名古屋城と同じように戦後、鉄筋コンクリートで再建された城跡は各地に存在しているため、今後も大きなハードルとして問題になることも予想される。そこで、本ブログで何回かに分けて過去の城の復元を事例として取り上げながら、城跡の復元整備にあたっての法令上の問題を紹介していきたい。

今回は、城の木造復元ブームの先駆けとなった白河小峰城三重櫓福島県白河市)の事例を見ていきたい。

 

小峰城の概要と三重櫓復元に向けた動き

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白河小峰城(以下、小峰城)は結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのが始まりとされる。1632年(寛永4年)には丹羽長重が棚倉から移封され、4年の歳月をかけ現在に残るような近世城郭として小峰城を整備した。その後、小峰城寛政の改革で知られる松平定信などが居城として使ったが、1868年(慶應4年)に戊辰戦争白河口の戦いで落城し、三重櫓をはじめとする城内のほとんどの建物が焼失した[1]

しかし、白河の人々にとって小峰城は非常に愛着のある城のようで城の復元に向けた動きが何度か繰り返されてきた。

1972年(昭和47年)には白河町(当時)の教育長が中心となって小峰城復元期成同盟会を結成。近江栄(日本大学理工学部教授)に設計を委託、藤岡道夫(東京工業大学名誉教授)が監修し、三重櫓復元の見積もりまで出した[2]。しかし、翌年の石油危機によって計画は頓挫してしまった。

また、1983年(昭和58年)にも、松平定信公二百年祭を契機に小峰城等復元調査委員会が設立された。しかし、この時は小峰城跡が国史跡に指定される可能性が出てきたため、この時も活動がストップした(国史跡に指定されると、復元等の現状変更が厳しくなる)[3]

その後、白河市小峰城跡を文化財というよりは都市公園整備の一環として整備する方針を打ち出していく。

 

立ちはだかる建築基準法

1982年(昭和57年)に「城山総合公園基本計画」が策定され、都市公園整備の一環として小峰城三重櫓復元が盛り込まれた。そして、基本計画に基づき、いよいよ1987年(昭和62年)に1989年の白河市制40周年記念事業として三重櫓復元が正式決定され、翌1988年(昭和63年)には小峰城三重櫓建設委員会が発足した。

しかし、ここで法令上の問題が立ちはだかった。

史実に忠実な形で小峰城三重櫓を復元すると建築基準法に違反するのである

そもそも、建築基準法は「建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資すること」(法第1条)を目的とする法律で、“建築物”の安全基準を定めている。

しかし、伝統工法を駆使して復元する小峰城三重櫓は現代建物に求められる安全性(耐震性や防火性)を満たさない。

同法21条では「高さが十三メートル又は軒の高さが九メートルを超える建築物は、第二条第九号の二イに掲げる基準に適合するものとしなければならない。」(一部省略)と規定し、13メートルを超える建築物に各種の安全基準を満たすことを求めているが、復元される小峰城三重櫓の高さは14メートルであり、この規定に違反してしまう。

そこで白河市は、ある裏技を使う。

復元する小峰城三重櫓を「建築物」ではなく「工作物」としたのである。

建築基準法第2条第1項では「建築物」を「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの、これに附属する門若しくは塀、観覧のための工作物又は地下若しくは高架の工作物内に設ける事務所、店舗、興行場、倉庫その他これらに類する施設をいい、建築設備を含むものとする。」(一部省略)と定義している。

つまり、土地に定着しているものを「工作物」といい、その「工作物」のうち同法で規定するものを「建築物」といい、建築基準法でその安全基準を規定しているのである。

つまり、小峰城三重櫓を「工作物」とみなせば、建築基準法で求められている基準を満たさなくとも復元が可能になる。そして、白河市小峰城三重櫓を「工作物」として建築許可を得たのである[4]

復元工事は1989年(平成元年)に着工。工事は急ピッチで進められ、1990年秋には三重櫓本体の工事が、ほぼ完了し、ライトアップ設備などの付帯工事を経て、1991年(平成3年)4月に竣工した[5]。基礎を除きすべて木造の小峰城三重櫓は初めての史実に忠実な復元事例となった。

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小峰城三重櫓の最上部(2015年撮影)

いよいよ、オープンということになるのだが、ここで「工作物」として建てたことが裏目に出る。

「工作物」として復元したために、内部に人を入れることができないのである

竣工当初は、内部を開放していたが、県から建築基準法上、内部に人を入れることはおかしいと指摘され、急遽、指導により3階構造のうち1階部分だけを「学術研究」の名目で「特別公開」することになった。

当時の新聞には「福島県白河市が再建した小峰城三重櫓が違反建築」と題した記事が掲載され「材質、形まで正確に復元したのがあだになり」とまで言われている[6]

この状態が望ましくないのは明らかである。

また、市民や観光客からも「せっかく立派に復元したのに、二、三階部分が見学出来ないのはもったいない。ぜひ開放してほしい」という要望が相次いだ[7]

市の担当者は頭を悩ませた。

 

三重櫓一般開放に向けて

光明が差したのは1993年(平成5年)に「都市計画法及び建築基準法の一部を改正する法律(平成 4 年法律第 82 号)」が施行されたことがきっかけである。

これにより建築基準法が改正、以下の条文が加わった。

建築基準法第3条第1項

この法律並びにこれに基づく命令及び条例の規定は、次の各号の一に該当する建築物については、適用しない。

一 文化財保護法(昭和25年法律第214号)の規定によって国宝、重要文化財、重要有形民俗文化財特別史跡名勝天然記念物又は史跡名勝天然記念物として指定され、又は仮指定された建築物

二 旧重要美術品等の保存に関する法律(昭和8年法律第43号)の規定によって重要美術品等として認定された建築物

三 文化財保護法第98条第2項の条例その他の条例の定めるところにより現状変更の規制及び保存のための措置が講じられている建築物(次号において「保存建築物」という。)であつて、特定行政庁が建築審査会の同意を得て指定したもの

四 第1号若しくは第2号に掲げる建築物又は保存建築物であつたものの原形を再現する建築物で、特定行政庁が建築審査会の同意を得てその原形の再現がやむを得ないと認めたもの

 

つまり、小峰城三重櫓が法第3条第1項4号に規定される「建築物又は保存建築物であつたものの原形を再現する建築物」と認められれば、建築基準法の適用が除外される。

すなわち、小峰城三重櫓を「工作物」とみなさなくてもよくなり、一般に開放することが可能になるのだ。

より厳密にいえば、①「小峰城三重櫓」という建物が規定される「保存建築物」として法律または条令によって認められること、②復元された「小峰城三重櫓」が原形を再現する建築物で、特定行政庁が建築審査会の同意を得てその原形の再現がやむを得ないと認めたものとなることが必要となる。

基準としては厳しいが、条件さえ満たせば一般公開も夢ではない。

さっそく、白河市は動き出した。

1996年(平成8年)9月に市議会で小峰城三重櫓の「構造評定」を受けるための予算1,280万円を計上。一般財団法人日本建築センターによって、小峰城三重櫓の安全性を認めてもらい、県の建築審査会で法の適用除外を受けることにした。

スケジュール通りに行けば、1997年(平成9年)7月から2,3階部分を一般公開する予定だった[8]

しかし、前例のない試みのため、そううまくはいかない。

構造評定の結果、補修が必要だと判明したのである[9]

そこで、1997年6月の市議会で補修工事のための2,957万円を盛り込んだ補正予算を提出。同時に市の「白河市都市景観条例」を制定、小峰城三重櫓を「都市景観重要建造物」に指定した[10]

同年9月に補修工事が完了、建築審査会の同意を得て、1998年(平成10年)4月に全面公開をすることができた[11]

小峰城三重櫓竣工から7年が経過してのことである。

 

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三重櫓内部(2015年撮影)

小峰城三重櫓復元の意味

このように小峰城三重櫓は建築基準法上の「工作物」となることで、復元自体は可能と

なったが、その後、大変な苦労をすることになった。この経験から学ぶことは多いだろう。しかし、白河市のこの「チャレンジ」が、のちにつながっていることも忘れてはならない。それまで、城の木造復元は建築基準法を理由に困難とされていたが、小峰城三重櫓の事例は、工夫の仕方によっては木造復元も可能であるというメッセージとなった。実際、小峰城の後、白石城大櫓(宮城県白石市、1995年)、新発田城御三階櫓(新潟県新発田市、2004年)、大洲城天守愛媛県大洲市、2004年)というように全国各地で城の木造復元が相次いだ。これは「平成の城郭再建ブーム」「木造復元ブーム」と呼ばれ、文化庁文化財保護の方針にも影響を与えることになる。現在、各地の城跡を訪れて、木造復元された城を楽しめるのは白河小峰城三重櫓の復元が行われたからとも言えるのである。

 

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[1] 白河観光物産協会HP

[2] 1990年11月21日「毎日新聞」東京朝刊、白河市教育委員会(2010)

[3] 1990年11月21日「毎日新聞」東京朝刊

[4] 1996年10月「財界ふくしま」25(11)、加藤(2016)

[5] 1990年6月「財界ふくしま」19(6)、1990年11月21日「毎日新聞」東京朝刊

[6] 1994年6月7日「読売新聞」東京夕刊

[7] 1996年10月「財界ふくしま」25(11)

[8] 1996年10月「財界ふくしま」25(11)

[9] 日本建築研究所HP

[10] 1997年6月12日「朝日新聞」朝刊(福島)

[11] 1998年3月22日「朝日新聞」朝刊(福島)

 

参考文献

加藤理文(2016)『日本から城が消える -「城郭再建」がかかえる大問題』洋泉社

白河観光物産協会http://shirakawa315.com/sightseeing/komine.html(2018年7月27日閲覧)

白河市教育委員会(2010)『小峰城跡復元報告書 三重櫓・前御門』白河市埋蔵文化財調査報告書第57集

日本建築研究所http://www.jalab.co.jp/projects/1997/337.html(2018年7月27日閲覧)

1990年6月「財界ふくしま」19(6)

1996年10月「財界ふくしま」25(11)

1990年11月21日「毎日新聞」東京朝刊

1994年6月7日「読売新聞」東京夕刊

1997年6月12日「朝日新聞」朝刊(福島)

1998年3月22日「朝日新聞」朝刊(福島)